旅の話(4) アウシュビッツ
小学校6年生のとき、「アンネの日記」で知ったアウシュビッツの存在。
でもずっと、どこか心の中に、そんな恐ろしい話が現実ではないことを
願う気持を持ってきたけれど、とうとう行ってしまいました。
早朝、宿を出てクラクフの駅から列車へ。
クラクフから一番早い時間に現地に到着できる手段が列車。
でも、朝一番のオシフィエンチム行きは予約が必要な特急列車。
知らずに予約入れてなくてモメ、時間ぎりぎりになった、で
窓口でてんやわんやでチケットゲットし、超ダッシュでホームへ。
息も絶え絶えに私が階段を駆け上がってる間、
驚くことに、ダンナが車掌を説得して列車を待たせてくれてた。
こういうときは、イタリアみたく、遅延アタリマエ~列車って、ありがたい。
で、オシフィエンチム到着。
駅に降り立つと・・・・なーんにもない。
観光案内の看板とか、インフォとか、なにもない。
バスも当分来ないとわかり、地元の人に道を尋ねて徒歩。
アウシュビッツって、私、ずっと1箇所かと思ってたけど、
第1~第3まで、3箇所の強制収容所があったんですね。無知でした。
出発前の予習で初めて知りました。
公開されてるのは第1と第2(ビルケナウ)。
第1から行くつもりで歩いてたら、どこかで道を間違ったらしく、
気づいたら第2の、ビルケナウの、あの超有名な光景が目の前に。
第2アウシュビッツ ビルケナウ
周囲はのどかな畑が広がり、おじさんがキャベツの手入れをしてる。
普通の、静かな田舎の風景の中の、不気味な一帯。
この前に立ったときは、鳥肌が立ちました。
「ああ、やっぱりアウシュビッツは存在したんだ・・・」
とうとうここまできてしまった。同じ人間としての嘆き。
ついつい無口になってしまう私たち。
ほとんど会話をせずに、敷地内へ。
・・・・広い。
慰霊の想いと、人が人を選別し処理する、という過ちの愚かさを、
一歩一歩に感じながら敷地をくまなく歩きました。
青すぎるこの日の空と同じ空が、当時にもあったはず。
焼却炉が足りず、この広場では遺体の野焼きが行われたそうです。
暗い収容棟の中から、この青い空を見上げる気力や、
希望を持っていた人は、いったいどれほどいるんでしょうか。
なにか、とてつもない大きく深い絶望が沁みこんでいる、
とでも表せばいいんでしょうか。
ほんとうに、言葉がでない、心が固まっていく感じを味わいました。
当時のことは映画や本でしか知らないし、
何に自分自身の心が固まっているのかもわからないけど、
そこにいた沢山の人々の、冷え切った息が残っていそうな、
そんな空気を味わいました。
正直に言うと、怖かった。
当時、収容されていた人たちの恐怖と絶望が、
現在の私たちに、こんなにも強く訴えかけてくるのに、
当時の、ナチス親衛隊はそれをどう受け止めていたんだろう、と。
その無機質化した人間の存在も怖かった。
第1アウシュビッツ
お昼も取らずに、第一アウシュビッツへシャトルバスで移動。
ここは収容棟それぞれが博物館となっており、
1棟1棟、展示物や、当時の部屋を見ていく。
改装されていて、観光客も多く、
ビルケナウで感じたほどの、押しつぶされそうな感情を
ここに感じることは少なかったけど、
やはり収容者たちの遺品などの資料はずしん、ときた。
イタリア映画「ライフ・イズ・ビューティフル」で、
イタリアからも、各地の強制収容所に送られた人々がいた、と知った。
このミラノからもたくさんの人々がアウシュビッツなどの強制収容所へ
送られたらしい。
ミラノの中央駅地下からも、アウシュビッツ行きの列車が出た、という。
ミラノ中央駅21番ホームにはそのことが壁に刻まれています。
いま、生活しているこの街に、もしかしたら生き残ったわずかな人や、
絶望と闘った人の親戚や友人たちがいる可能性は大いにある。
遠い、遠い、縁のない、離れた世界で、昔昔に起きたできごとではなく、
いまも、そのことを背負って生きている人たちと、隣り合わせにいる自分。
人間がこんな過ちを繰り返すことのないように、
負の遺産として、アウシュビッツはいまも存在し、公開してるのでしょう。
見学に要した時間、10時間。(歩きすぎで足、傷めました・・・苦笑)
精神的にも体力的にも、激しく消耗するところでしたが、
この先の人生、まだ長い付き合いになる(であろう)夫と行けて、
一緒に考え、語り、祈ることができたことは本当にありがたかったです。
家族ですらバラバラにされた収容所にいて、
普段の平凡な日常が、どんなに幸せなことか、を実感しました。
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